水子供養のこころ


 (7)の項において水子供養の意義や供養のしかた、実際例などを書いた。いずれも当院の場合であるが、水子供養は全国各宗のお寺でも行われている。今までかえりみなかった小さな生命が供養されることによって鎮魂され、親の勝手な意思により中絶するという好ましくない行動を反省し、生命の尊厳が再認識されたことは望むところである。筆書の願いは叢書にこの点にあるわけである。水子の存在は古くからあった。現在のような人工中絶がない時代でも流産死産はあったし、難産で母子ともに死ぬ事もあった。ところが昔の人は水子に対しても認識が深く位牌を作ったり墓を作って供養している。歴史のある家の仏壇には何々家水子の霊、何々家孩子の霊という位牌がよくあるものである。
 ところが近年医術の発達,とともに人工中絶が一般化したために新しい形の水子が誕生することになった。そして医学の進歩とともに人工中絶を安易に行い苦痛も伴わないところから、小きな生命の存在を物のごとくに考えてしまい、親として子に対する愛情を失ってしまったわけである。悲しいことであり恐ろしいことである。
 しかし今これが見直され何らかの形で供養しなければならたいと現代人が自覚しつつあることは誠に嬉しいことである。外国においても関心を集めている。人間の生命が何であるかということを思い直す風潮を作った。ところで、この水子供養を多くの人が「たたる」という感覚で受けとめ.恐ろしいことのよぅに感じているのは遺憾である。因果関係からみれば「たたる」ということに似た現象が起きることも時々あろが、「たたる」から「たたらない」からということで供養をするものではない水子供養は親の愛情から親の当然の役目として義務として、心から行うものである。そして
子を思う親の心が良い結果を生むのである、またその心が今生きている子供にも、日常の生活にも、夫婦の間の心にも影響し良くなるのである。とにかく先に述ぺた宿命に当たるものであるから気付いた時には、これを正常化しておきたいものである。畜生と呼ぼれる犬や猫のぺットにも愛情を感じて墓を造る人があるのに、自分の子に対して思いやりをかけない人がいるのはまさに心の荒廃といえよう。
 生命は一つである。たとえ一寸の命といえども親が所有、することはできないのである。人間の生命は地球より重いといわれるが、」まさに水子供養というものは生命の尊厳に関わるテーマである。