因と果について


 因なくして果ある事は、事理なし」というのは釈迦尊の言葉で仏教の根本的な教えである。朝顔の種を播けぱ朝顔の芽が出て花が咲くが何も播かなけれぱ絶対に芽は出て来ない。今何らかの結果があるということばその結果を招く原因が必ず存在する。何かの原因があれぱ必ず結果がある事は誰でも理解できる因果の法則である。そしてこの因果の法則には例外はないのである善因(良い種)に善果(良い結果)が生ずる.悪因(悪い種)には悪果(悪い結果)が生ずるのは当然である。善因悪果、悪因善果は絶対にないのである。果報とか因果応報という言葉もこれらを物語った物である。
 現在幸福な人は過去の善因の果報が現れているわけで、不幸な人は過去の悪因の果報を受けているのである。この果報はまた、生きている一生だけに限って現れるものではない。先にも述ベたように三世(過去、現在、未来)にわたるのである.すなわち我々の知ることのできない長い期間にわたって作用する法則なのである。そこでこれらの因果関係を区別すれぱ、同時因果と異時因果とに分けられる.同時因果とは原因を起こせば結果がすぐに現れることである.水に一滴の墨をたらせば黒く染まるように、墨を落としたという原因によって水が黒くなったという結果が現れるのである.喉が渇いた時に水を飲むと、喉の渇きが止まるという結果が得られる.このようた因果関係を同時因果という。柿の種を播いたとする。しかし、すぐに柿ができるわけではない。水をやり、太陽の光を受け、土の栄養に助けられてっ成長し芽が出、葉が出て柿がなるわけである.種を播いてから柿がなるまで通常八年かかるといわれるように、種を播いて柿がなるまで相当の時日を必要とする。山々に欝蒼と生える大木も数百年の年月を経ているのである.千年前の蓮の種が芽を出して花が咲いたということがあったが、これは、実に千年の年月を経ているということである。これらを異時因果という。
 異時因果においては年月、時間の長短は関係なく、要は原因を生ずれば必ず結果が起きるということなのである。このように考えてくると、親の勝手な意思でこの世に生を得なかった水子という存在は、その原因が供養もされなければ悪因を発したことになる。同時因果、異時因果という二つの法則にあてはめれば、必ず悪果が起きるわけである。今その影馨を受けない人でも異時因果という尺度で考えれぼ末代、未来永却に及ぶわけである。たとえばまったく意味なくして多くの人を前にして空中で手を振りたとしよう。意味なくして手を振つても、原因を起こせば結果か起きる。意味なく手を振っても多くの人は振りむくだろうし、手の周囲の空気は乱れているはずである。このようにまったく意味のないことであっても原因を起こせぼ結果が様々な形で生じるのである。ましてや水子の場合は生命である。その生命がどの様な理由であろうと、放置され顧みられることも供養されることもなく存在するということは、誰が考えても悪因である。それが故に悪果が起きるのである。ではどうすれぱ良いのか・・・・。
 滅罪生善という言葉がある。これは悪行の因を減しそれを良い方向に向ける方法のことである。心から懺悔して仏法僧の三室に帰依ることなのである。この事によって罪業は日光に照らされた露のように跡形もなく消'える。その人は心身ともに洗いたての白布のようにきれいになることができる。これが減罪である。我が父を殺したアジヤセ王が、その報いで不治の病にとりつかれた時、釈尊のこの教えで救われたという有名な観無量寿経の話は滅罪をもの語る代表的なものである。人間は三行といつて、身、口、意の三つによつて善い事も悪い事も行うのである。滅罪もこの三つの形に表して行う必要がある。その善事善行には読経、念仏、写経、造塔などの仏事があるが、一口でいえば仏に供養することである。これによってよい果報を生むわけである。これが生善である。この善根の功徳は自他ともに廻向(功徳を振りむけること)されることになり、かえりみなかつた水子の霊は静まり供養され救われるわけである。それとともに親も罪を減し善を生ずることによつて果報を得るのである。そして善根を積めぱ、その蓄積がめぐりめぐりて善果となって自分の身に戻ってくるわけである。水子供養の大切さを人にすすめ供養をすることは、供養のすすめによつて善行をすすめた事となり、供養をした人とともに果報を受けるので虫ある。自分自身が善行を行らことはもちろん、人に善行をすすめることも子の人にとってほ善根を積むことになるわけである。人間には運命と宿命がある.宿命とは父母をもって生まれた子供の存在、すなわち何をもってしても変えることのできない存在のことである。この宿命の系列に水子があるということは、宿命的なものになつて末代にわたつて悪因をかかえることとなる。そこで滅罪生善をはかるわけであるが、これを筆者は宿命の正常化といっている。