水子とは


 水子とは胎児が出産期をまたず、自然または人工的(医学的)に流産した場合を指し、現在圧倒的に多いのは中絶による水子である。やむを得ない事情があるにせよこれを放置しておくことはまことに好ましいことではない。 一人の人間としてこの子どもたちが生まれてくれば親の意識も変わるだろうが、闇から闇ヘ葬ってしまうのでその存在を軽視しかえりみることもないわけである。中には何の罪悪感もなく、物でも捨てるようなつもりでいる人もいるので恐ろしいことである。しかしながら水子の存在は常に気にかかる存在で、父親は勿論、我が身を痛めた母親にとっては忘れることのできない出来事である。
 仏教では過去、現在、未来を三世といって、すべてこのつながりの中で生きていると説く。現在自分がいるということは、溯って、みれぼ多くの先祖がいたということである。不幸にしてこの世に生まれなかった子供でもこのつながりの中にあるわけである。水子もいってみれば父母の肉体を借りて(託生という)命を得たということなのである。涅槃経の一説に胎内五位.胎外五位が説かれその人間の生成過程が述べられている。解剖学や人間の生命の誕生が医学的に解明されていない時期に、これらを仏典で明らかにしたということは恐るベき洞察力といわなければならない。
 仏典に説かれているように、人聞の命は和合をもって母体に発した瞬間から命の発生をみるわけで、母体中の胎児の大小には関係はない。涅槃経においては、胎児が母の体内で成長を重ね、二百六十六日をもって出生すると説かれている。和合をもって発した生命は生まれたい生きたいと願っているわけだが、この胎児はある時は流産、死産によつてこの世に生を受けない時もあるわけである。また、このよらに生まれたいと願いながらも親の都合で生命の芽を摘みとられれ出生の機会を得ることができないということは、誠に不幸なことといわなければならないどのような事情があろうと、人間は生まれ生きる事に価値があるのである。自分の肉体に宿つた生命を自分の都合で抹殺するのは良いことではない。水子はその理由がどうであれ、この世に生まれ得なかった小さな命のことを意味する。