お悔みのこころ


 葬儀の意義に始まり、27頃まで葬儀について.述ぺたが、あえてこの稿で重複するような形で詳しく記したとぃぅことは、先ずその順序を明確にし、どのよつな心構えが必要かということを書きたかったからである.とにかく葬儀とぃぅ.ものは人間最後のドラマであるから、厳粛でそれにふさわしい心得と心くばりがあつてなされるものである.特に会葬者はよほど親しい間柄でない場合は、他人事のように考えがちであるが、遺族にとっては耐え難い瞬間であるので、よくその心を察知するべきである。
 筆者はある友人の夫人の葬儀に、遠方に出張のため出席できず、数日後帰宅してその訃報に接したことがある.日時を経過していたので何となく機を逸し、弔問にも伺わず失礼をしたことがあるが、その友人は「お参りにきてくれなかった」といつて再々愚痴をこぼしていた.筆者としては何となく、機を逸したこともさることながら、その友人の気持を察するあまり、筆者が伺うことによって悲しみの気持ちをあらたにしてはという一種の危惧を抱いたために、結局は失礼したわけである.しかし二十年経ってみて思い出すことは、たとえ遅れてもお悔やみに行くベきだったといぅことことである。考えすぎた妙な思いやりが伝わらず、かえつて冷たい奴だと思れれたに違いなぃ.そのよな気持は、筆者に毛頭なくとも、やはりどのよらな理由があろうとたずねて弔意.を表すのが、本当の意味のお悔やみであることを今更ながら知つて後悔しているわけである。留守中のことであつたので家人が弔電、香典は届けたわけだが、人の心はそれぱかりではない.顔を見せての心からのお悔やみに勝るものはないのである。