葬儀の意義


 滅びゆく肉体の埋葬と鎮魂を願い、故人の徳をたたえ、死を客観的に自覚するのが葬儀である。何人たりとも自分の死を見ることは出来ないわけで、常に経験するのは他人の死である。それ故この儀式は、人間の終焉にふさわしい厳粛なものであるべきであり、またいきているものにとっても、死をもっとも身近に知る最大の時である。それはともすれば、見失いがちな本来の人間の姿、人生というものを再発見し、生きているということを問い直す良い機会ともいえる。いくら頑強な身体を誇ったところで、この死である。釈尊はその教えの中で、四苦を説かれ、生、老、病、死といわれたが、その最期に来る誰も避けることの出来ない死ぬ苦しみというものを知るときでもある。そして故人の近親者はいうに及ばず、参列のものも無常観を味わうひとときでもある。平素心にも留めなかった僧侶の読経が、まことに尊くありがたく耳に響くのもこの時である。各種の法要や月参りで聞くお経というものは、その意味もわからぬ俗人にとって、退屈なものの一つであるが、葬儀で聞く読経いうものは、その意味がわからなくても心に訴えるものが違う。これは死を現実に目の前にして、自らの生を考えるからである。確かに存在していた肉体が、目の前で滅びるからである。そして現世では、二度と巡り会うことのないこの一瞬を自覚するからである。まさに無常観である。去来する故人の思い出、あの頃、あの顔、あの姿、あの声、やさしかった心強くたくましい人、すべてが凝縮されるのもこの時である。それゆえに葬儀というものは、参列者の心の中にさまざまな思いがよぎっているものであるから、華美を避け、ひとしく冥福を祈れるようなしつらいというものが肝要である。なお葬儀というものは、結婚式などの祝いごとといったあらかじめ準備のできるものではない。ある日突然、まったく予期せず訪れるものであり、故人がたとえ病いにふせっていようと、その死を予知することは困難である.特に故人の肉親においては、常に一抹の希望をもっているもので、医師からその死をあらかじめ知らされようとも、一縷の望みをもっているものである。
 それがために、物理的な準備というものは進めていても、心の準備といらものはなかなか整わないものである.祝い事はその主催者において、準備する期間があるから失敗は許されないが、このような意味からすると、忌み事は突然のことであるから、少々の疎漏があっても容認され、許されるものである。よって参列者が、その葬儀に目にあまる失策があっても、故人関係者の心の中をおもんばかり、その非を指摘することは厳禁である。