写経の本義

 写経は本来、経典をその教えのとおりに書写しそれを受持し、安置し、敬い、広く長く後世に法燈を伝えるために行われてきたものである。筆者の三井法流においては、師僧から法儀伝承に関して「これ全て書写し師僧より受法すべし」と教えている。.すなわち師僧から受法する場合にその儀軌を写すわけである。
 もっとも初歩的な護身法授受に関しても、その其言や内容についても書写をするのである.
 また十入道、護摩、胎蔵界、金剛界という四度加行の折紙についても、受法すべき弟子が詳細にこれを書写するのである。
 むかしは印刷技術が発達していなかったので、当然のこととして書き写すということが行われたが、近年各宗門においてはこれらを印刷複写しこれが授受される。また近世においては、これらが木刻され版木となって印刷され授受されている。 しかし我が三井法流においては、かたくなに書写するという伝統を守っている。
 なぜかというと、写経の心と同じく書写することによって、伝受される内容を熟読含味し、我が身に体得させるねらいがある。またそれにより、僧としての加持カを有するものだといわれるのである0 法華経の法師晶には「若し又人ありて経典を授持解脱すると共にこれを書写すればよく大願を成就す」とあるのと同じ意味であり、金光明経、不退転法輪経などの大乗経典にも等しく写経の功徳が説かれている。
 折紙や儀軌などはもちろんのこと、写経についても正確を期することが大切なことである。もし間違って書写された場合に、後世に至って大きな間違いを生じ、誤解を生ずることになるので、写経は間違いのないよう正しく書写することが原則である.
 筆者の寺は、千年の歴史を有するところから種々の写経類が伝わっているが、どれをとってみてもその一字一字には大変な迫力が感じられる。
 重要美術に指定されている天平年間に書かれたとされる僧光覚願経においても、その筆致から真剣さがうかがわれるのである。写経は僧をはじめ貴族などの限られ選ばれた老によって書写されたものであり、書写された写経自体も善美の限りをつくして装飾がほどこされている。
 このようなことをみても、写経することが厳粛な儀式であり、写された経がいかに大切なものであったかがうなずける.