写経は霊性をもつ

 写経にあたってはまず、心を落ちつけ、墨をすり、墨を筆につけて文字を書く。墨をする段階から写経は始まるのである。禅でいえば道場に入る時の心構えである。りかぐわしい墨の匂いは、香の匂いに似て清々しさを誘う。静かに墨をするうちに心が洗われ、いらだった心もいつしか落ちつくものである。字を書くのであるから、当然のことながら背を伸はし姿勢が良くなる。息がはずんでいれば字が.書けないから、おのずと深い呼吸をするようになる。そして一字一字筆を走らすうちに精神の統一がなされ、雑念が去り、正に無の境地に近づくのである。
 写経の心構えは、きれいな字、うまい字を書くのではなく、上手下手は別として、心をこめて書く。一字一字に神経を集中して、これを完成していくということである。写経は思いついた時に書くのではなく、たとえ少しずつでも良いから、毎日続けて書いてゆく方が良い。座禅でも長くやったから心の安定がはかれるものではない。時間が短かくても絶えずやっていることで心の修正が生まれ、心が落ちつくのである。
 写経も同様で、毎日やっていることで落ちついた心の形成がなされ、繰り返すことによって、最終的には書の上達にもつながるものである。
 写経する時には、般若心経であれば一日一巻、これを百日で達成するというように目標を決めて取りかかることである。冒巻を書き終えた時の心の充実感と清々しさは、たとえようもないものがある。そして一巻日と首巻目をみた場合に、自分でも驚くくらい字の上達が見られ、字を通して心の落ちつきができ上がっているのに気がつくに違いない。
 ひと口に宵巻というがこれを達成するには百日かかるわけで、これはひとつの行である.書き終えたということは行を終え、己の心の中に忍耐カを養ったということになる。また一字一字に心の集中がなされていると、これは祈りの世界に到達しているわけで、写経する目的、願いごとが一字一字に込められたのであるから、祈際であろうと供養であろうと、大きなカとなって願望成就の達成に結びつくのである。
 かつて古人がさまざまな防いをこめて写経し納経したというのも、溌縮された心の願いが、写経を通じて具現化したことに他ならない。瞬いをこめて書かれた一巻の写経は、霊的発動がなされたものとして、単に一枚の紙でなく霊性をもつものへと変化するのである。