写経する心


 お経はそれを唱えるだけで功徳があるとされている。お経の深い意味を理解することができなくても、すでにその言葉にはカが備わっている。そのお経を書き写すのであるから、これまた大きな功徳を得るのは当然のことである。
 そこでお経を読むという言葉と、お経を写すという文字のことについても、もう少し深く掘り下げその持つ意味を考えてみよう。
 言葉というものは、日にも見えず形もないので、なんの力もないように考えがちだが、発せられた言葉を相手が受けとれば、その時点からカの作用が始まる。たとえば励ましの言葉を人から受けた時、それを受けた人はその意味を解し、心に感じてなおがんばろうとする。ほめ言葉も同じである。言葉はそれを受けとる人の心を動かすのである。
 言葉を発する人が、言葉の意味がわからずに発した場合どうなるであろうか。たとえば外国を訪れた時、言葉の意味を知らずに言葉を教わったとしよう。かりにその言葉が「私は貴方が好きだ」という意味だとする。それを意味もわからず目の前の女性に発したとすると、その女性はその意味を知っているために、時には困惑し時には怒ってしまう。このことは言葉を口にした方は意味がわからなくとも、受けとる方には言葉のもつカが作用したことを意味する。
 お経を内容的にみると、物語であったり、哲学的な教えであったり、そこに説かれていることは実に広い範囲にわたるが、お経の言葉自体は仏の言葉である。だから意味がわかるにこしたことはないが、わからずとも仏が受けることによって、前の例のようにカを発揮するのである。お経は読むだけで功徳があるというのは、このような意味が含まれているのである。
 写経とはこれらを具体的に文字という記号で書き写すことである。恋をして言葉で「愛している」ことを告げても相手に通じるし、相手も心をたかめるだろうが、これをさらに文字にして贈れば確たる意思表示として相手が受けとる。写経も同様で、お経の言葉を書き写すということは、文字の中に心がこめられているということであり、言葉以上にカを有することは、恋文を書くのと同様に大きな作用を持つのである。
 写経する心の第一の作用に掲げられることは、難しい理論はさておき、写経するそのこと自体で功徳があるということである。次には写経することによって仏の世界への導入が始まるということである。
 最近は映像文化の時代といわれ、文字というものが軽ろんじられ、漢字も満足に書けない人が急増しているが、漢字は一字で多くの意味を有し、通常の人であれはYおよそその意味を解することができる。お経は仏典であるから、難解な文字が多いが、多少の教養があれば大意はつかめるものである。一字一字心をこめて書写するうちにお経の意を何となく解することができるようになる。これはまさに仏の世界に大きく一歩近づいたということである。
 また写経することは精神の統一に結びつき、禅を組む世界と似ている。