道場について
静かなところ
座禅を組むについて一番大切なことは、静寂ということである。
 熟達し、いかなる騒音があろうとも、不動の心を持ちうるようになるというととはなかなか望めないことで、道場を選ぶ第一の条件として静けさというものをあげたい。それには世俗を離れて深山幽谷が良いということになるが、最近ではそれも不可能で、最大限防音に努めることである.
 人の出入りのないところ
人が出入りすると気が乱れる0当然のこととして集中していた心も乱れる。だから座禅を組んでいる間は人の出入りは厳禁である。またその道場の外を人が歩いた場合、その気配を感ずるようなところは好ましくない.人ばかりではなく、犬とか猫の出入りがあるところも避けておくべきである。

 外気のはげしくないところ
人の出入りと同様に、風だとか煙、雨、雪などが吹きこんだりしないところが好ましい。外気の出入りがはげしいということも心を奪われる一づである。

 日の集中力を失わないところ
 座ってふと外に目をやると、非常に景色のいいところがある。また道場の外で子どもが大勢遊んでいるとか、革の往来が激しいとか、新幹線が行きかうのが目に映るだとか、このようなところは避けたいものである0動くものが常に目に入ってくるということは、心を奪われると りいうことである。

 清潔なところ                                  
 道場であるから当然であるが、清潔な環境が必要である。なんとなくじめじめしているとか、すえた匂いが充満しているような道場は好ましくない.
 ある寺の庫裡で座禅を組んだことがあるが、梅雨時であったというせいもあって、かび臭い匂いが室内に充満し、閉口したことがある。住んでいる人は慣れてしまってさほどその匂いに気をとめていないが、われわれ参加した著は一様にその匂いに悩まされ、足の下からかびがはい上がってくるように思ったものである.
 これらかびの匂いはかりでなく、食物の匂いだとか異性を連想するような香水の匂いだとか、どうしようもない不快な匂いだとか、このようなものが道場に侵入してこないようなところを選ぶことである。

 明時をほどほどに
 あまり明るすぎる道場や、極端に略すぎる道場というものは好ましくない。平均的な明るさが差し込み、暗くもなく明るくもないというのが理想的である。
 明るいといきおい心が落ち着かないし、暗いとうっかりすると眠ってしまう。また気拝も減入ってしまうものである。

 寒くもなく暑くもなく
真夏の太陽がさんさんと降り注ぐところで座禅を組んでいても、無我の境地になれるものではない0直射日光を浴び、汗を流しながら組んでいては、何をかいわんやである。寒暖もほどほどにというところである。
 ただ筆者の当院で、冬、寒気厳しいところで座禅を組ませることもある.初めは相当厳しいようだが、組んでみるとわかるように、しはらくすると寒気はあまり感じなくなる.終わったときには体がほかほかして一種の爽快感がある。現代人には、厳しい自然の環境に立ち向かつていくという姿勢が欠けているので、このようなことを試みるわけだが、感想文など書かせてみると、  あの厳しい寒さが印象的だった0心を洗われるような感じがした。寒気の中で警策を受けて、何かふっきれるものを感じた。
 とかいう感想が多いものだから本来、禅を組む場合は、寒くもなく着くもないというところが理想的ではあるが、自らを準えようというときは、ときには厳しい環境に自分の体を置くということも必要である。

 仏さま、華、燭、香をしつらえる
 阿字観のような本専の対象物ではなくても、道場という限り仏さまをお飾りしたいものである。仏さまが身近におわしますというその意識が大切なのである。仏さまを飾るならば、当然のこととしてお花や燈明やお香をお供えしたい。
 なお香台があると、座禅の始まる前に線香を立て、その一本が消えるまで座禅を組むというような時間をはかるということもできるから便利である.