心をときはなつ
座禅とは座ることである0しかしただ座ることであれば、座という言葉が一つあればいいわけで、禅とついているということは座る動作とともに心をときはなち、静かに自分を見つめなおし、いわゆる無我の境地に自分を導くという動作が伴っていることを意味している。
無我の境地、まことによくわかるようで、難しい心の状態である。人間何ものにもこだわらず心を無の状態にするということは容易ではない0何も考えず眠っているときでも、夢をみたりするということは、心の働きがなされているということである0しかしそれも何度か練習することによって、その状態に近づくことは可能である0その一つのとくに優れた方法が座禅といえる。
 そこで何ものにもこだわらない心を作る方法であるが、二つあると思う。座る動作については基本的に違わない。しかし心の持ち方には二つあって、一つは何も想わないという状態0すなわち無念無想の状態を修行するという方法と、ある一つのことに心を集中して他の雑念をとりはらうという方法がある。
 無我夢中という言葉があるように、何か一つのことに熱中していると、確かに人間というものは他のことを忘れてしまう。むしろ何も想うなといわれると、いろいろのことが想い出され雑念が彷彿として湧きあがってくるものである。
 どちらの方法をとるか、それぞれに心理構成も異なり、上下をつけにくいが、極端ないい方をすればどちらをとってもいいと思う。方法は違っても成そうとすることは同じだからである。
ぁる一つのことに心を集中するという方法には、阿字観という座禅の修法が教えているように、円形の本尊を用いる方法がある。またそのようなものを何も用いず観想の中で心を統御するという方法もある。
 ところで過去多くの指導をしてきたが、阿字観にみられるように何かの対象物を中心に心を制御するという方法をとるより、座禅の心をとりあえず知るためには瞑想するということのほうが現代人に合っているように思われる.
 座禅を組む場合、眼は開けたまま座るという方法と、薄く眼を開ける半眼という方法と、全く眼を閉じてしまうという方法の三つがある。しかし初歩的には眼を閉じるという方法が最適のようである.
 なんとなく軽く眼を開け、膝先三、四十セソチに限を落としているという半眼の方法は、理想的なことかもしれないが、初めて座禅を組む人にこれを教えると、かえって限の開き方ばかりに神経が散ってうまくいかない場合が多い。
 限を大きく開けているという状態は、これまた神経が散りやすい。阿字観のように本尊を対象としている場合はよいが、そうでない場合は横から観察していると、限の黒い部分がよく左右に動いているものである.
 ところで眼を閉じて無我の境地になるといっても、かえって雑念が次から次へ導いてくるということは、やってみればよくわかる。むしろ無というより有の状態になるわけで、際限なくいろいろなことが想い出されるものである。

このような場合は、何か一つの理念をとらえて、すなわち想い出したことをとらえて、そのことに心を集中し、考え尽くすことである。考えて考えることである。そうすると何かの対象物を見つめながら、座禅を組むのと同じ状態の、いわゆる心の集中ということが行われる。それを考え尽くすことによってある時点に達すると、パッと心がときはなれることに気がつくに違いない.
 いってみれば、限を開けて対象物を見つめながら神経を集中しようと、限を閉じて一つの想念に集中しようと、物理的には異なっても心理的には同じ形成を成すものである。