四苦八苦


 
 最近不況で会社の運営に四苦八苦しているとか、商品にクレームがついてそのいい訳に四苦八苦したとか、ふだん何気なく使われているが、本来これは仏教の言葉であり、次のよつな意味が含まれている。
 まず四苦とは生、老、病、死の四つの苦しみを意味している。
 生まれる事がなぜ苦しみなのか?皮肉なことに人間とは、母胎の中で生命を発した瞬間から死に向かって歩き続けるのである。死というものは自分自身あまり意識せず、永久に訪れないように考えがちだが100パー
セント確実にやってくる。だから生まれることがなければ死ぬこともないわけで、生まれたが故に苦が生じるとみるのである。
 老いるという現実も、不老長寿の薬を飲んだとしても、誰もとめることばできない。
 人間の老いは時間をかけて訪れるので、自分自身はその変化に気がつかない。もしある女性が十年ぶりに鏡を見たとしたら、そこに映った自分の顔をみて、誰の顔だろうと驚くに違いない。頭髪が抜けハゲ頭になり、シワが増えて、それでもとにかく若さを保とうともがいている現代人は、まさにこの老いの苦しみにもがいている姿である。
 病の苦しみはいわずもがなである。
 百億、一千億の財産があっても、おいしい物も食ペられず、床にふせったまま財産を使うことができないのならば、なにもないのと同じである.まさに健康ほど素晴らしい財産はないといえる。
 死ぬ苦しみ。人間は最終的に死ぬ存在であるが、なんとか生き続けようとする。死はなんとしても避けたいものである。生ヘの執着は万人のものである。
 以上が四苦であるが、あと愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四つがある。四苦八苦という言葉は、さきの四苦とこの四つを合わせたことをいうのである。
 他に八つあるわけではない。愛別離苦というのは、愛する人、いとしい人と別れる悲しみである。可愛いと思えば思うほど、愛していればいるほど、別れはつらい。しかし恋人も親子も兄弟も、いつかは別れなければならないものである。
この愛別離苦と対照的なのが怨憎会苦である。会いたくないと思っていても、その人に会わなけれぼならない皮肉な現実。嫁姑の間もそうであろうし、いやと思いながら生活を共にしていかなければならない夫婦もあろう。求不得苦とは、自分の思い通りにならないところから生ずる苦である。自己中心的な欲望をもつと、それが満たされないときにはますます苦となる。またその欲求が大きくなればなるほど苦悩も大きくなるのである。五陰盛苦。これまでのべた七つの苦を概括したのがこの苦である。人間は身体と心からできている。この身体と心がいろいろな形で盛んに燃えるから苦しむのである。つまり人間は生きていること自体、苦なのである。
 ところで四苦八苦というものを考えると、いささか虚無的な感じを抱かざるを得ない。人間、生きることが苦であれば、生きている価値はないだろう。そのようなことを釈尊は教えられたのではない。人間はこれらの苦を誰しも避けることはできない。これらを抱えつつどう生きたらよいかを説いたのが釈尊の教えである。